刺しゅうの店 クレージーストアー

TEL:098-937-6916
〒904-0004?沖縄県沖縄市中央4-1-2

お店紹介

技術を誇る刺しゅう店ー各種品のネーム入れ、デザイン刺しゅう、野球バック、スパイク靴、
各種靴、帽子、柔道着/帯のネーム入れ。

店舗紹介

店舗案内
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当店の名前『クレージーストアー』の由来
刺しゅう店クレージーストアーは 私、古賀なな子(娘)で二代目です。
先代の父がまだ店を持てず、あるお土産品店の一角を借りてミシン一台を置き商売をしている頃、ある外人のお客さんが、犬のプードルの写真を持って来て刺繍をして欲しいとの注文が来ました。
仕上がりは自分でもとても満足のいく出来栄えで、その外人さんが取りに来た時、その犬を見て大満足され、そして、その外人さんの第一声が~
『I am Crazy About It!』
と歓声をあげて喜んだそうです、英語の意味としては「気が狂いそうなくらい嬉しい」と言うことらしいです。
その時、「クレージー!」と言う言葉は、単なる「狂っている、頭おかしい」とかと言う意味ではなく、最高の意の表現「半端じゃなく腕が良い」にもなる事を知り、お店を開業が出来た時には、この名前を付けようと思い『刺しゅう店 クレージーストアー』と言う店の名前に決めました。

店舗名 刺しゅうの店 クレージーストアー
代表 古賀 なゝ子
住所 〒904-0004
沖縄県沖縄市中央4-1-2
電話番号 098-937-6916
FAX番号 098-923-0416
メールアドレス info@crazy-emb.com
営業時間 月曜日~金曜日 10:00~18:00
定休日 毎週 土曜・日曜日

「特産品づくり」 地域活性化を目指して刺しゅうの芸術性を売り込む

沖縄県沖縄市中央パークアベニューで刺しゅう店「 クレージーストアー 」を営んでいた 故 古賀薫氏。
( 現在は二代目の娘が営んでいる )故 古賀薫(父)は長崎県の出身、39歳の時に沖縄に渡り営業を始めた。
当時、米民政府下にあった沖縄では、外国人は簡単には商売が出来なかった。
元沖縄県婦人連会長の協力を借り、技術導入の名目で沖縄県沖縄市呉屋十字路の一画で店を構えた。

ベトナム戦争の景気に沸いた二十年ほど前には、一度に五千、六千のワッペンやカープネームの注文があり、本土にも発注して間に合わせたほどで景気が良かった。
外国人客に頼る刺しゅう店は円高不況の波をまともに受けた。「商売は今が一番苦しい」と、その当時、故 古賀薫氏は語った。
その中で、末娘の古賀なな子さん(末娘)が跡を継いでくれることで思い切ってコンピューターミシンを導入する事にした、これで大量生産にも対応する事ができた。
しかし、外国人相手の商売は下火になり、観光客の相手の一時的ブームもあてに出来ない。実際、観光客が買っていったものがメーカーの手によって大量生産され逆輸入された例もあり、細々と商売をする形になった。

客の八割は地元の人達、刺しゅうの技術よりも、とにかく安ければ良いという外国人の仕事が多くなり、本物の良さ、技術の高さを評価してくれる客を求めるようになりました。
基地経済からの脱皮が叫ばれ、観光資源・特産品開発推進の動きの中で沖縄県沖縄市の刺しゅうも注目された。
だが、行政の援助も指導も弱く、業者の結束も弱かった。
刺しゅうの行く末は暗いように思える。
外人商売の下火によりゴーストタウンと化した通りは、沖縄市パークアベニュー通りに模様替えして活況を取り戻しました。
そんな日の目を見る可能性を高めたのは、故 古賀薫氏、そして後継ぎであり末娘の古賀なな子さんのような素晴らしい技術を持った人達が頑張り続けているからこそであり、今後も大きな可能性を秘めています。

古賀さん親子の刺しゅうの技術は「油絵と変わらないぐらいの芸術作品」と定評がある。
刺しゅうの良し悪しを見分けることのできる日本人の購買力に期待を寄せている。

沖縄県展などの芸術性や技術の高さを人びとに知らせる展示会を開催してはどうかという提案もあった。
沖縄県展のなかに刺しゅう部門を設置できないものかどうか。あるいは沖縄県沖縄市や沖縄商工会議所が独自の展示会を開催し、刺しゅうの良さ、素晴らしさを教えて行く機会があれば、紅型以上の沖縄県沖縄市観光土産品の誕生につながるかもしれない。

沖縄 中央パークアベニューのご紹介

沖縄 中央パークアベニューのご紹介

アクセス

スタッフ紹介

おかげさまで何社か地元の新聞、某テレビ局からも取材を受け、取り上げていただきました。

スタッフ紹介

この道に生きる 「沖縄県沖縄市役所市民交流誌記載」
ワッペン・刺繍師 45年  古賀なな子
故 古賀 薫(父)が、長崎で刺繍店をしていた伯父の店に勤めたのが16歳。それから20歳の時に独り立ち、しかし、昭和20年の
原爆投下で店が焼け、その時、沖縄行きを決心したと言う。
沖縄県沖縄市嘉手納基地空軍通りに最初の店を構え、そして、同じ沖縄市の中央パークアベニュー通りに移転し現在に至る。
現在は跡継ぎの古賀なな子(娘)と従業員3名の4名で営んでいる。
開店当時は外人の客がほとんどだったが今はスポーツ店、ホテル、専門店大手会社、学校、多種全般、個人客が主だと言う。 背に刺繍の入ったジャンパー類や数多くのワッペンなどが場所狭し、と陳列されている店の中に足踏みミシンが1台、コンピューターミシン7台が備えられている。
どんな大きな物でも、どんな細かい物でも対処できると言う。
「毎日、作ることに喜びを感じている、県内でも技術的に難しいものは他店から回って来る、刺繍関係で出来ない物はないです。」ときっぱりと言ったオーナーの古賀なな子さん、まさに、この道の「職人」と言う言葉にぴったりの人である。

スタッフ紹介

刺繍師 古賀 なな子(61歳)特産品づくり
『地域活性化を目指して刺しゅうの芸術性を売り込む』
沖縄県沖縄市中央パークアベニューで刺しゅう店「 クレージーストアー 」を営んでいた故 古賀薫氏(現在は二代目の娘が営んでいる)
故 古賀薫(父)は長崎県の出身、39歳の時に沖し営業を始めた。
当時、米民政府下にあった沖縄では、外国人は簡単には商売が出来なかった。
元沖縄県婦人連会長の協力を借り、技術導入の名目で沖縄県沖縄市呉屋十字路の一で店を構えた。
敗戦後、仕事を求めて沖縄にやってきた。ベトナム戦争の景気に沸いた二十年ほど前には、一度に五千、六千のワッペンやカープネームの注文があり、本土にも発注して間に合わせたほどで景気が良かった。
外人客に頼る刺しゅう店は円高不況の波をもろにかぶった格好だった。
「商売は今が一番苦しい」と、その当時、故 古賀薫氏は語った。
しかし、その中で、末娘の古賀なな子さん(末娘)が跡を継いでくれることで思い切ってコンピューターミシンを導入する事にした。 これで大量生産にも対応する事ができた。
しかし、外人相手の商売は下火になり、観光客の相手の一時的ブームはあてに出来ない。
実際、観光客が買っていったものがメーカーの手によって大量生産され逆輸入された例もある。
細々と商売をする形になり客の八割は地元の人達、刺しゅうの技術より、とにかく安ければいいと言う外国人の仕事が多くなり、本物の良き技術の高さを評価してくれる客を求めるようになりました。
基地経済からの脱皮が叫ばれ、観光資源・特産品開発推進の動きの中で沖縄県沖縄市の刺しゅうも注目された。
だが、行政の援助も指導も弱く、業者の結束も弱かった。刺しゅうの行く末は暗いように思える。
しかし、現在の沖縄県沖縄市パークアベニューの以前は外人商売の下火によりゴーストタウンから沖縄市パークアベニュー通りに模様替えして活況を取り戻しました。一つの機会によって日の目を見る可能性を高めたのは、故 古賀薫氏(父)、そして後継ぎの末娘 古賀なな子さんのような素晴らしい技術を持った人達が頑張っているだけに大きい可能性を秘めているでしょう。
古賀さん親子の刺しゅうの技術は『油絵と変わらないぐらいの作品』と芸術性の定評がある。
刺しゅうの良し悪しを見分けることのできる日本人に購買力としても期待を寄せている。

沖縄県展などのような芸術性や技術の高さを人びとに知らせる展示会を開催してはどうかという提案もあった。
沖縄県展のなかに刺しゅう部門を設置できないものかどうか。
あるいは沖縄県沖縄市や沖縄商工会議所が独自の展示会を開催し、刺しゅうの良さ、素晴らしさを教えて行く機会があれば、紅型以上の沖縄県沖縄市観光土産品の誕生につながるかもしれない。

スタッフ紹介

刺繍師 古賀 なな子(61歳)仕事へのこだわり
『毎日、仕事に教えて貰っています。』
沖縄市の中央パークアベニューに有る『 クレージーストアー 』は創業70年の刺しゅう店である、色とりどりのワッペンで埋め尽くされた店の奥から聞こえるカラ~カラ~カラ~とリズミカルな音をたどっていくと一台の古めかしいミシンを相手に二代目店長の 古賀なな子さん(61歳)が作業の真つ最中です、『店には自動で縫ってくれるコンピューターミシンもあるけれど、正確なデザインを描いて入力して下準備が大変、そうしてる間にこのミシンなら、一枚を仕上げちゃうんですよ。』縫うべき部分のイメージを頭に思い浮かべながら、両手で布を送る、ミシンにはペダルが二つ付いていて、左足のペダルはスピード調整用、右足のペダルを踏むと針が左右に振れる幅を変えられる仕組みだ、手足の動きを微妙に変えることで、表現に広がりが出る、まさに体中を使って、一つの作品を一気に縫い上げるのだ。
『影の部分は斜めに縫うとか、部分、部分で技法を変えたりして見てこの辺は同系色の糸でグラデーションにするとか、なんだか油絵みたい な感じですね、でも下絵はあくまで最低限、フリーハンドで仕上げていきます。』
この道43年、もともとは米軍人相手に軍服のネーム入れや、 部隊マークのロゴ作りが仕事の中心だったが、最近は一般からの注文がほとんどです。
洋服の柄いれやスポーツクラブのネーム入れ、旗や幕の模様付けも手掛ける。
好きな絵画や写真を刺しゅうに、と言う相談も多い。
『店に並べる商品より、お客さんから持ち込まれるデザインを形にする仕事が多い、イメージどおりに仕上げる為、今回はどんな縫い方にしょうかって、いつもそればかり考えていますよ、絵画展を見に行ったりデザインの本を手に入れたりして、研究が欠かせない毎日です。』
古賀なな子さんには夢がある、それは刺しゅうの世界、その表現力をもっともっと多くの人達に知ってもらう事『そして個展を開けたらいいなって思っています、どんなデザインでも挑戦して、こんなものだって縫えるんだよって皆さんに見せてあげたい、刺しゅうにはおわりはありませんから。

名人一番 すぐりもん/方言「意味は素晴らしい事」 沖縄県 琉球新報 新聞記事面
手仕事が大好き
「アメリカ風な」と形容される、沖縄県沖縄市嘉手納基地の門前町として多くの外国人が行き交い、町の風景、生活にその色が反映されて来たが,円高ドル安の時代になり、基地の外にお金を落とす外国人は、かつて程は居ない。
いわゆる以前の嘉手納空軍基地 繁華街「コザ」をイメージするものが少なくなっている。(現在はコザ市が沖縄市の名前に変更されている)
今回、紹介する『刺しゅう店』もその一つで在る。
現在、沖縄市中央パークアベニュー通りに在る、以前は世界的に知れた、沖縄県コザ市センター通りが、ビジネス街パークアベニュー通り名前に変更になりました。
刺しゅう店 クレージーストアーのオーナーの「古賀 なな子 61歳」は、先代故古賀 薫氏(父)から店を受け継いだ、現在は従業員は3人、高校を卒業して直ぐに父の店に就職したので刺繍を生業にして43年になる。ベトナム戦争の頃は約20軒ほどの刺繍店が在ったが、現在は5軒ぐらいに減りました。
「私の店は以前から同じ場所に在るが、町並みは昔の面影は在りませんとオーナーの「古賀 なな子さん」は語る 」
現在、お店も近代的になりコンピューターミシンも多く取り揃え、色とりどりの糸で、世界各国の旗、メッセージ文、ロックバンドのトレードマーク等、スポーツ販売店のロゴ入れ、個人アニメのキャラクター、さまざまなワッペンを作成してお店の壁一面に展示されていす。
現在の刺繍の客層は外国人よりもスポーツ関係、会社業務関係、ホテル関係、結婚式店洋服店、各種クラブ関係、ボウーリングシャツ店、ゴルフ店、学校関係、個人デザイン、写真を元にした刺繍、美術デザイン、その他の特別注文。
いつでもお客様の要望の注文に対してベストを尽くしたいと思います。
そして、思えば幼い頃から「手仕事」が好きだった、刺繍と言えば「クレージーストアーにと、言われるようになりたい」と意欲を見せている。

メディア掲載

某テレビ局の取材の時の記念写真

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